映画「三丁目の夕日」に入り込んだようなお店のたたずまいに心が躍りました。
香ばしい醤油の香り。堅焼きなのにサクッと歯が入る絶妙な焼き加減。
手焼きならではのこの風味と食感になんとも言えない安心感を覚えます。

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市川でおせんべいを焼いて50年。鳳銑堂(ほうせんどう)さんを取材しました。

市川市北方三丁目、坂道の中腹にそのお店はあります。

市川で創業50年の老舗せんべい店「鳳銑堂(ほうせんどう)」の店主大野銑之介さん(89)は、来年1月26日で卒寿を迎えます。
柔和で人懐こい笑顔。焼いた醤油の香ばしい香り漂う店内で、今日までおせんべいを焼いてきた職人としての足跡をうかがいました。

「その昔はね、この坂の上、坂の下(市川市内全域という意味のよう)全部合わせて23店のせんべい屋があったんですよ。うちなんかこの通り坂の途中に店を構えてて駐車場もない。商売やるには不利だと思ったんです。けれど他は全部店仕舞いしちまって、結局今日まで残ってしまいましたよ」。(※以下「 」内は全て大野さんの談)

大野さんが市川で鳳銑堂を開業したのは今から50年前、ちょうど40歳の頃でした。

「私は元々市川の人間じゃなくてね、生まれ故郷は愛知県で学校出てからは役場の職員やってたんです」。

1970年代に差し掛かろうというこの当時、大野さんの住む愛知県某所では昔から盛んだった林業が斜陽となっていきます。80年代以降、往時のようにハウスメーカーが国内産の材木を積極的に扱わなくなったことから、日本の林業は衰退の一途をたどります。

「役場には失業して相談に来る人がたくさんいて…。こんな山ん中にいても先がない。そう思って一念発起、東京に出てきたんですよ」。

上京すると大野さんは、当時築地本願寺の裏手にあるせんべい店に弟子入りしました。(現在、そのおせんべい屋さんはありません。)そこで3年間修業を積み、吉祥寺でお店を出すことになります。

「その時、築地の旦那が行徳に大きなせんべい工場を出すって言うんでそこに責任者として行ってほしい、と。でも結局いつまで経っても工場は出来なくてね。わたしはもう市川に越してきちゃっているし、仕方なくここ北方でこの店を始めたんですよ」。

フジテレビからのテレビ出演を大野さんは断り続けました。

市川での商売も軌道に乗ってきた頃、鳳銑堂がテレビで取り上げられることになりました。

ご主人の大野さんにうかがったところ明確な年月日を記憶されてないのですが、初代林家三平さんが出演していたフジテレビ系列の番組ということなので、おそらく70年代半ばから後半にかけてではないかと推測します。

「最初、テレビ局の人が来ても私は(出演を)断ってたんだよ。うちには大したお金もないし、テレビに出るなんていくらかかるのか分かりゃしない。そうしたら”お金は要らないんです。むしろこちらがお支払いしたいぐらい”と向こうから言われてびっくり…めでたくこの店がテレビに映ることになって。田舎の愛知でも放映されたようで、親が喜んだ声で電話かけてきてさ。あん時は嬉しかったなぁ」。

1枚30~45円。丁寧に焼かれたおせんべいを遠く横浜から買いに来る人も。

筆者が鳳銑堂で取材している最中もしばしばお客さんが訪れます。
皆一様に、大野さんの元気な姿を見るや目を細めて安心するかのようにおせんべいを買い求めていきます。
価格は、1枚30円から45円(税込み)、一枚一枚丁寧に焼かれているのが分かります。

おせんべいの種類は、醤油を塗っただけの大丸と中丸。ゴマの大丸、中丸もあります。他には亀の甲羅をかたどった「亀甲」という青のりを振りかけたものや砂糖をまぶしたザラメ。これら全てガラスの丸瓶に何ともかわいらしく詰められており、並んでいるおせんべいを見るだけで不思議と気持ちが和みます。


地元市川のお客さんが一番多いようですが、県内でも野田や佐倉の遠方から、県外からはなんと横浜から定期的に来店するお客さんもいるということです。

「運が良かったのか名前が良かったのか。ありがたいことにここまで商売やってこられました。かつてニッケ(日本毛織株式会社)の役員さんがうちのせんべいを気に入ってくれて。店(※ニッケコルトンプラザを指していると思われる)に鳳銑堂のせんべいを置いてくれた。これには随分と助かったんだ、うちの店は」。

遠い目をしながら今までの経緯を話してくれる大野さん。贈呈品として購入していくお客さんには丁寧な包装を施します。

「楽な仕事じゃないですよ。毎朝5時に起きて仕込みを始めるんです」

冒頭にもあるように大野さんの焼くおせんべいの堅さ加減が絶妙です。堅焼きの質感を残しながらさくっと柔らかく歯が入り、口中で香ばしさを漂わせながら心地よく壊れていく。堅いのに柔らかいというある意味矛盾した食感が同居しています。

昔はもっと堅かったのですが、一緒にお店をやっていた奥さんが堅いせんべいを噛めなくなった頃から品質改良を試みたようです。


おせんべいの焼き方を大野さんから簡単にご指南いただきました。

まず最初は、白いせんべい生地を1時間弱火でゆっくりあぶって水分を飛ばし乾燥させます。水分が残っていると本焼きの際、あぶくが出てきて厚さに統一感がなくなってしまいます。確かに鳳銑堂の店頭に並んでいるおせんべいは形が均質でまるで規格品のように整然と袋に収まります。

そして乾燥させたものを一度冷ましてから本焼きに入ります。刷毛で醤油をムラなく塗り、両面ひっくり返しながら火に当てて仕上げていきます。

その仕事ぶりは丁寧で、間もなく90歳を迎える人の手つきとは思えないほどてきぱきしています。

「お店に入ってくる人は、皆いい匂いと言ってくれるんだけれども50年近くも同じ場所で同じ匂いを嗅いでるとさ、それがいい匂いなのかどうかも分かんなくなっちゃったよ」。と微笑む大野さん。

取材の最後に今まで半世紀にわたりおせんべいを焼いてきて、一番嬉しかったのはどんなことか質問してみました。

「何だろうなぁ…。辛くて悲しいようなことは無かったけど、とびきり嬉しいことも無かった。だけど50年間ずっと朝早く起きてせんべい焼いて、毎日続けてこられたこと。お客さんとこうして顔を合わせられること。それが一番の”嬉しいこと”なんだろうなぁ…」。

おせんべい屋さんを取材してこれほどまで含蓄に富んだ締めくくりが待っていようとは。当初予想だにしませんでした。

続けてきたからこその今がある。鳳銑堂の堅くて柔らかい、優しいおせんべいは、大野さんが50年もの間、コツコツと重ねてきた人生そのものであるような気がします。

お散歩がてらにこの懐かしい風味のおせんべい屋さんを訪れてみてはいかがでしょうか?

鳳銑堂(ほうせんどう) 店舗情報

  • 住所:千葉県市川市北方3-5-5
  • Tel:047-334-2269
  • 営業時間:火曜~日曜10:30~19:00(月曜定休)

※時に不定期なお休みもあります。


鳳銑堂は北方三丁目、京葉銀行や焼肉屋「赤門」のあるアーデル通りを中山競馬場方面へ向かうと、坂道の中腹にあります。駐車場はありません。

ライター:u1ro